史記はどこから読む?列伝から入る司馬遷の入門ルート

「史記を読んでみたいのですが、本紀と列伝だとどっちが面白いですか」。
キングダムや項羽と劉邦、四面楚歌の出典として『史記』の名前を知り、いざ読もうとすると全130巻という数字に手が止まる。全訳は8冊もあって挫折しそうだし、抜粋の入門書はどこを抜粋しているのか分からない。Q&Aサイトにこの手の質問が何年も繰り返し投稿されているのは、入口の案内が足りていないからです。
最初に答えを言うと、『史記』は全部読まなくていい本です。人物ごとに独立した記述が並ぶ紀伝体なので、どこから開いても成立する。この記事では、最初に開くべき3篇を名指しします。そのうえで、その3篇をそのまま収めた筆者所持の入門版から岩波・ちくまへ進む版選びを、篇から逆引きする表で整理しました。最後に、あえて後回しにしたい1篇についても触れます。
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目次
史記はどんな本か|130巻・52万字を全部読まなくていい理由
『史記』は、前漢の司馬遷が神話時代から自分の生きた武帝の時代までを記した歴史書です。全130巻、本文は「五十二万六千五百字」と伝わります。文庫の全訳で8冊分。数字だけ見れば、確かに気の遠くなる量です。
ただし、この130巻は一本の物語ではありません。5つの部門に分かれています。
| 部門 | 巻数 | 何が書いてあるか |
|---|---|---|
| 本紀 | 12 | 帝王・天下の中心人物の年代記。秦始皇本紀・項羽本紀・高祖本紀など |
| 表 | 10 | 年表・系譜 |
| 書 | 8 | 礼・音楽・暦・天文・経済などの制度史 |
| 世家 | 30 | 諸侯・有力な家の歴史 |
| 列伝 | 70 | 将軍・思想家・刺客・商人など、あらゆる人物の伝記 |
表と書は資料集に近く、読み物として面白いものではない、というのがQ&Aサイトの回答者の見方。残る本紀・世家・列伝は、いずれも「人物ごと」に書かれた伝記です。つまり130巻のうち読み物として楽しめる部分は、最初から人物単位に切り分けられている。全部読まなくていい、という言い方はここから来ています。
本紀と列伝どっちが面白い?紀伝体だからどこからでも読める
冒頭の質問に戻りましょう。本紀と列伝、どちらが面白いのか。
Q&Aサイトの回答者の答えは「どちらが面白いという類のものではない」でした。本紀は皇帝や覇者の伝記、列伝はそれ以外の人物の伝記。劉邦と白起のどちらが面白いかと聞かれても答えられないのと同じで、主役が誰かの違いに過ぎません。
むしろ重要なのは、『史記』が「紀伝体」で書かれている事実です。出来事を年代順に並べる編年体ではなく、人物ごとに一生をまとめて記す方式。だから1篇が1人の物語として完結していて、前の巻を読んでいなくても入れる。ある回答者の言葉を借りれば「わりとどこからでも読めます」。
ただし傾向はあります。列伝は70巻と『史記』全体の半分以上を占め、刺客・遊説家・商人・酷吏まで登場人物の幅が広い。「最も面白いのが列伝で、ここから手をつけるのがいい」という声が多いのはこのためです。一方で項羽本紀のように、本紀でありながら物語性が際立って高い巻もある。
結論としては、こうなります。
- 最初の1篇は「知っている名場面がある巻」から鴻門の会・四面楚歌を知っているなら項羽本紀。キングダム経由なら刺客列伝(荊軻)や秦始皇本紀。知識のある場所から入ると固有名詞の壁が低い。
- 五帝本紀から順に読み始めない第1巻は神話的な帝王の記述が続き、固有名詞の連打で脱落しやすい。年代順に読む必要はない。
- 通読は目標にしない興味のある人物を3〜5篇読んだ時点で、すでに『史記』を読んだと言ってよい。
最初に開く3篇|伍子胥列伝・魏公子列伝・項羽本紀
では具体的にどの篇か。筆者は次の3篇を推します。理由は単純で、この3篇がそのまま、筆者所持の入門版の3部構成になっているからです。
角川ソフィア文庫の『史記 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』(福島正 編)は、文庫272ページに『史記』の名場面を精選した抜粋版です。筆者は2020年11月にKindle版を購入しています(購入当時585円。同シリーズの韓非子・老子・易経とまとめ買いした一冊です。価格は時期により変わります)。この本は次の3部で組まれています。
- 第1部 春秋末期の動乱|伍子胥列伝より父と兄を殺された伍子胥が呉に亡命し、復讐を遂げるまで。呉越の抗争の舞台でもあり、「復讐劇」として一気に読める。
- 第2部 戦国時代の人間関係|魏公子列伝より戦国四君の一人・信陵君(魏無忌)と、門番の老人・侯嬴との交流。身分を越えた信頼がどう成り立つかという、人間関係の物語。
- 第3部 秦から漢へ|項羽本紀など始皇帝の死(秦始皇本紀)、陳勝・呉広の蜂起(陳渉世家)、そして項羽の挙兵から鴻門の会、四面楚歌まで。教科書で最も有名な区間。
復讐、信頼、興亡。テーマが3部で意図的に散らされているので、どれか1つは自分の関心に当たります。しかも各項目は原文・書き下し文・現代語訳・解説の4点セット。読書メーターには「原文、書き下し文、訳文、寸評と安心の構成」「鴻門の会の読み下し文は臨場感たっぷりで、声に出して読みたくなった」というレビューが並びます。四面楚歌の場面を書き下し文で読める、というのは抜粋版ならではの体験です。
もう一点、レビューで「簡単にではあるけど戦国四君全員について触れられていたのが嬉しかった」とあるとおり、抜粋の外側についても解説で全体像を補ってくれます。全容がわかる解説が付く、と版元が謳っているのはこの部分です。
篇から逆引きする版選び|ビギナーズ・クラシックスから岩波・ちくまへ
版選びで迷う原因は、「どの版にどの篇が入っているか」が見えないことにあります。読みたい篇から版を逆引きする形で整理しました。
| 読みたいもの | 版 | 位置づけ |
|---|---|---|
| 伍子胥・信陵君・項羽の名場面を原文つきで | ビギナーズ・クラシックス(角川ソフィア文庫) | 1冊・272ページ。最初の1冊 |
| 列伝70巻を本格的な訳と注で | 史記列伝(岩波文庫・全5冊) | 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳。列伝を深く読む定番 |
| 本紀・世家も含めて130巻すべて | 史記(ちくま学芸文庫・全8巻) | 小竹文夫・小竹武夫訳。入手できる唯一の全訳とされる |
| 司馬遷の生涯と読み方を講義形式で | NHK100分de名著ブックス 史記(安田登) | テレビ講座テキストの書籍化。伴走役 |
| 人物関係を絵で把握したい | 横山光輝『史記』(マンガ・全11巻) | 三国志ファン向けの導入。司馬遷の論評は簡略化される |
順路は3段です。まずビギナーズ版で3篇を原文の手触りごと味わう。人物の物語をもっと読みたくなったら、岩波文庫の『史記列伝』で刺客列伝・廉頗藺相如列伝・淮陰侯列伝と広げる。背水の陣(淮陰侯列伝)、完璧や刎頸の交わり(廉頗藺相如列伝)といった故事成語の出典は、この段階でほぼ押さえられます。本紀・世家まで含めて全体を見たくなった人だけが、ちくま学芸文庫の全訳に進めばよい。
筆者が所持しているのはビギナーズ版のみで、岩波・ちくまは未所持です。両版の中身の評価は控えますが、Q&Aサイトや入門記事で「列伝だけなら岩波、全訳ならちくま」という役割分担が繰り返し語られている点は、版選びの根拠として十分に安定しています。
向かない人にも触れておきます。1つの長い物語として通して読みたい人には、人物ごとに時代が前後する『史記』はやや落ち着かない本。その場合は、時代順に再構成した歴史小説や横山光輝のマンガで流れをつかんでから、原典の該当篇に戻る方が楽です。
ビギナーズ・クラシックスというシリーズ自体の使い方は、孫子・韓非子・老子とあわせてこちらで整理しています。
関連記事: 中国古典はビギナーズ・クラシックスから|孫子・韓非子・老子
司馬遷はなぜ書き続けたか|宮刑と報任少卿書
『史記』を読むとき、著者の事情を知っていると読み味が変わる。
司馬遷は、父・司馬談の遺志を継いで太史令(記録・暦を司る官)となり、歴史書の執筆を進めていました。その途中で起きたのが李陵事件です。匈奴との戦いで敗れ降伏した将軍・李陵を、司馬遷は武帝の前で弁護した。それが武帝の怒りを買い、死刑に相当する罪を宣告されます。
当時、死刑を免れる道は、莫大な贖い金を納めるか、宮刑(去勢)を受けるかでした。司馬遷は宮刑を選び、生き残って執筆を続けます。その心境を友人・任安に書き送った手紙が「報任少卿書」。そこで司馬遷は、自分の仕事を「天と人との関係を究め、古今の変化に通じ、一家の言を成す」ことだと述べています。
この経緯を知ってから列伝を読むと、なぜ司馬遷が敗者や刺客や、歴史の主流から外れた人々に多くの紙幅を割いたのかが見えてきます。勝者の記録ではなく、人間の記録。『史記』が2000年以上読み継がれてきた理由は、史料としての価値だけでなく、この視点にあります。
最後に読む1篇|伯夷列伝が列伝の先頭にある意味
列伝70巻の第1篇は「伯夷列伝」です。ところが筆者は、この篇を最初には勧めません。
伯夷・叔斉の兄弟は、周の武王が殷を討つことに反対し、周の穀物を口にすることを拒んで山中で餓死した人物として描かれます。正しいことをした人が報われずに死ぬ。この短い篇で司馬遷は、「天道は是か非か」と問いを投げます。善人が必ず報われるとは限らない。名を残さなかった者を歴史家はどう記録すべきか。列伝全体の序論であり、司馬遷自身の歴史観の宣言でもある篇です。
だからこそ、物語として楽しい項羽本紀や伍子胥列伝を先に読み、その後で伯夷列伝に戻ると、司馬遷がなぜこの篇を先頭に置いたのかを自分の読書体験から考えられます。入口ではなく、いくつか読んだあとの「振り返りの1篇」として置いてみてください。
なお列伝の第3篇は「老子韓非列伝」。老子と韓非子が同居する巻。理想を説いた老子と、仕組みで縛る韓非子を司馬遷がひとつの巻にまとめた事実は、中国古典を読み進めるうえでの面白い手がかりになる。両書については個別に整理しています。
関連記事: 老子はどんな本?「水のように生きる」思想の原典入門
関連記事: 韓非子はどんな本?性悪説で組織を読む帝王学の古典
まとめます。『史記』は130巻・52万字の大著ですが、紀伝体なので人物単位でどこからでも読めます。本紀か列伝かで迷う必要はなく、知っている名場面がある巻から開けばよい。最初の3篇は伍子胥列伝・魏公子列伝・項羽本紀。この3篇を原文つきで収めたビギナーズ・クラシックス版を入口に、列伝を広げたくなったら岩波文庫、全体を見たくなったらちくま学芸文庫へ。伯夷列伝は最後の振り返りに。まず1篇、鴻門の会から読んでみてください。
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